「やってみなはれの極意【その➃】」~引き継がれる「三方よし」の教え~

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「やってみなはれの極意➃」~引き継がれる「三方よし」の教え~

「ヴォー」、「ブォー」っと、どこからともなく汽笛が聞こえてきた。いよいよ小樽港発・新潟港行きのフェリー「らへんだあ」の出航だ。これから新天地での職務に向けて、いよいよ第一歩を踏み出すことになるのだ。自分の船室から海を臨むベランダに通じる戸をおもむろに開けると、そこには見慣れた懐かしの小樽港の全景が自分の門出を祝うかのように飛び込んできた。私はすぐさまそれに応えるように、ザ・プレミアム・モルツを勢いよく「ブシュッ」と音を立てて空け、これから自分が向かう新たなチャレンジを祝し「スコール、スコール、スコール(デンマーク語で「乾杯、乾杯、乾杯」の意)!」と声高らかに三唱し、私は自分自身を奮い立たせたのだった。
その約1カ月前の2018.2.12の正午、お台場のサントリービルの8階の社長室に呼ばれた私は、直属の上司である酒類会社の社長から「異動だ。新潟県上越市にある、株式会社・岩の原葡萄園の代表取締役社長に任ずる」と告げられた。サントリー酒類・執行役員・北海道支社長としての仕事もはや3年が近づき、その前年の9月に役職定年となる満57歳の誕生日を迎えていたこともあり、異動は想定内の事だったがしかし、岩の原葡萄園の社長になることは全くの予想外であった。
岩の原葡萄園は、日本のワインぶどうの父といわれる川上善兵衛が拓いた130年以上の歴史を誇る由緒ある自家葡萄園で、サントリーの創業者である鳥井信治郎がその経営を陰から全面的にバックアップしてきた経緯もあり、現在ではサントリーグループが全額出資してはいるものの、経営としては完全にサントリーとは独立・分離している地方の中小企業であった。

岩の原葡萄園は、自家ぶどう園での原料用ぶどうの「栽培」からはじまり、「醸造」⇒「瓶詰」⇒「販売」と一貫した製造・販売を行っているワイナリーで、歴代の社長はサントリーグループ本体から送り込まれるのが通例となっていた。入社以来35年間、営業・マーケティング・商品開発等の部署を歩んできた自分にとっては全く異質領域の仕事であったため、今回の岩の原への辞令は全くの「寝耳に水」だった。 こうして初めての生産拠点(工場)での仕事を任された私は、辞令発令の前々日の2018年3月31日に、自分の生まれ故郷である小樽港からフェリーで赴任地である新潟港へと向かったのだった。
話は変わりますが、皆さんは、サントリーの祖業(創業時の事業)がワインの製造・販売であることをご存じでしたでしょうか?サントリーの原点は1907年発売の「赤玉ポートワイン」の発売から始まります。創業者・鳥井信治郎が「世界のどこにもない日本のぶどう酒」を目指し、スペインから輸入したワインを門外不出のレシピで調合。美しい色と適度な甘酸っぱさを備えた日本人好みに仕上げ、さらには日本で初めてポスターにヌード写真を取り入れるなど、斬新な新聞広告で世間の注目を集めたのでした。
そしてこの「赤玉ポートワイン」が爆発的なヒットとなり、その稼いだ資金をつぎ込み1923年に日本初のウイスキー蒸留所である「サントリー山崎蒸留所」を設立する流れとなる。まさにこの祖業であるワインビジネスが今のサントリーを支えるウイスキー事業の原動力となった。サントリーの社名は、この赤玉を太陽にみたてて『サン(SUN)』とし、それに創業者である鳥井【TORY】の姓をつけて「サントリー(SUNTORY)」と命名したともいわれています(他、諸説あり)。

そしてその後、時代の流れとともに「赤玉ポートワイン」から本格的な日本のワインづくりへと転換を図るべく、鳥井信治郎が当時ほぼ廃園に近かった山梨県にある「登美農園」を「寿屋・山梨農場」として事業を買収・継承したのだった。そしてこの「寿屋・山梨農場」の開墾・事業承継に尽力したのが冒頭で述べた川上善兵衛だ。彼は鳥井信治郎の依頼を受けて岩の原葡萄園の社員を動員し、荒れに荒れていたこの葡萄園の基礎作りに邁進した。実際、川上善兵衛の娘婿である川上英夫氏がこの「寿屋・山梨農場」の初代農場長として派遣されていた記録が残っている。
ここで岩の原葡萄園の創設者である川上善兵衛について少し触れさせてもらいたい。川上善兵衛は1868年(明治元年)、越後国高田(現在の新潟県上越市)に川上家6代目当主として生まれました。川上家は江戸時代から続く大地主で、その地域では豪農として知らないものはいないほどの名家だった。14歳になって上京し、慶應義塾に入塾する傍ら、祖父と懇意にしていたあの幕末の英傑・勝海舟の邸宅をたびたび訪れ、将来の進むべき道や、人としてどう生きるべきかの教えをもらっていた。
その教えの中で勝海舟が話していた「これからの日本は、現在の欧米と同じように日本の食卓にあたりまえのようにワインが並ぶようになる」との話が忘れられなかった善兵衛は、地元の貧しい農民のために新たにぶどう栽培・ワイン醸造を始め、不作続きだった米作に加えて新たな産業を興すことを決意したのだった。そして有り余る川上家の財産を全てつぎ込んで自家庭園を広く拡大し更にはワインの醸造設備を建設し多くの小作人を雇い、積極果敢にワインづくりに挑戦したが、思ったようにワインは売れぬまま歳月が流れ、ついに川上家の財産を全て使いつくし、加えて投資に次ぐ投資でついには借金まみれ、まさに火の車状態とになってしまった。あげくの果てにはこの困窮ぶりを見かねた妻・オコウ(20歳の時に結婚)の父親から実家に引き戻されるという始末だった。
そんな絶対絶命の川上善兵衛(以下善兵衛)の窮地を救ったのが、かのサントリーの創業者である鳥井信治郎(以下信治郎)との出会いだった。当時の信治郎は、前述した赤玉ポートワインが飛ぶように売れていた一方、国産原料用のブドウが不足し、その供給先を求めて大阪から善兵衛を訪ねはるばる高田の地にやってきたのだった。全財産を投げうってまでも、地元の貧しい農民のために努力を続ける善兵衛のひたむきな姿に心を打たれた信治郎は、善兵衛が背負っていた膨大な借金を全て肩代わりするとともに、善兵衛のワインぶどう研究を全面的にバックアップしたのだった。これが信治郎と善兵衛の出会いの経緯だ。
信治郎が窮地に立たされていた善兵衛をに支援したのは、たとえ自分の財産を全て投げうってでも、地元の貧しい農民のためにワインを作り続ける善兵衛の強い志に信治郎か心を打たれたからだと考えられる。その頃の信治郎も日本で初のウイスキーづくりに向けて奔走していた時期で、その事業への挑戦に対しては100人中100人が反対した状況であったため、善兵衛のワインづくりに賭ける情熱が、信治郎のウイスキーに賭ける意気込みと重なって見えたからではないかと考えられる。
やがてその後日本にもワインが浸透し始め、信治郎が買収した山梨農園(現サントリー登美の丘ワイナリー)の開墾・開園を善兵衛が一手に引き受け、信治郎と善兵衛とでの日本のワインづくりの協奏がスタート、その後登美の丘ワイナリーは、日本で初めての貴腐ワインや代表ブランド「登美」などを生み出すなど、日本を代表する東洋随一のワイナリーとしてその名が知られるようになった。まさしく善兵衛はサントリーの祖業ビジネスを陰から支えた功労者といえるだろう。
そのような功績を作った創業者・善兵衛の志を後世に継承すべく、2018.4.1、岩の原葡萄園の社長としての私の仕事がスタートした。結果として約5年近く社長を務めさせてもらうことになったが、私が岩の原葡萄園を経営するにあたってこだわり続けたのが、善兵衛が抱いた創業の精神を社のミッションとして掲げ、それを従業員に徹底浸透させることだった。岩の原に赴任後、私は1か月もしないうちに、以下の「岩の原葡萄園の経営理念」を社員と一緒に作り上げ、この理念をもとに私の経営者としての5年の歩みが始まったのだった。
【岩の原葡萄園の経営理念】
創業者である川上善兵衛の創業の精神を受け継ぎ、お客様に喜んで頂ける品質の高いワインづくりを通じて、地域社会および日本ワインの発展に貢献することで、岩の原葡萄園を誰もが認める日本のトップワイナリーにする。(この岩の原での私の社長奮闘記については、以降、折に触れてお話しするこことしたい。)
話を戻すが、先ほど信治郎と善兵衛の出会いとワインづくりに関する協奏のいきさつについての話しをしたが、ここでのポイントは、「自分の財産を全て投げうってでも、地元の貧しい農民のためにワインを作り続ける善兵衛の強い志に信治郎か心を打たれ、それは善兵衛のワインづくりに賭ける情熱が、信治郎のウイスキーに賭ける意気込みと重なって見えたからに他ならない」ということにある。まさに信治郎は善兵衛に救いの手を差し伸べた恩人であり、情けの人であったと私はずっとそう理解していた。サントリーの創業者・鳥井信治郎を語るとき、人としての器が大きく「情」の深い人物であるとの理解があり、その人物の魅力に引き付けられて従業員は力を合わせて当時の会社を大きく発展させていったのではないかと思っていた。
岩の原が2020年に創業130周年を迎えたのを機に、私は翌年の2021年9月「岩の原の創業130周年記念トークセッション」を企画することを決意し、その登壇者として3人の方々を新宿にある京王プラザ東京へお招きすることを決めた。一人は善兵衛のひ孫にあたる川上洋(ひろし)氏、そしてもう一人は信治郎の孫にあたる鳥井信吾氏(現サントリーHD代表取締役副会長)そして、最後に善兵衛のワインづくりを後押しし、善兵衛の祖父の朋友であった勝海舟の玄孫(孫の孫)である高山みな子さんの3人だ。この3人に当時の彼らの先祖達の交友についての感想や思いを語ってもらおうという企画だった。

その中で私は、岩の原葡萄園の社長として自らコーディネーターを引き受け、絶体絶命の窮地に追い込まれていた善兵衛を救った際の信治郎の当時の思いを、登壇者の一人である信治郎の孫にあたる鳥井信吾氏に聞くというシナリオを考えていた。そのトークセッション本番前のリハーサルの場で、鳥井信吾氏に善兵衛に救いの手を差し伸べた時の信治郎の思いや感想を聞いた時、私ははっとした。彼は私にこう話してくれた。「私は当時の信治郎は善兵衛を助けたのではないと考えています。おそらく信治郎は近い将来、日本にワインというお酒が普及していくということをすでに察知していて、将来のワインビジネスの拡大のために、善兵衛を心底信頼し、彼にワインづくりの将来を賭けて投資したのではないかと考えています。」と。
そして続けて「いくら信治郎の経営者としての器が大きかろうとも、情けだけで莫大な資金を善兵衛に投入するほど信治郎は甘くないと思っています。おそらく当時世界中で普及していたワインがいずれは日本にも広がる、その時に必ず善兵衛の出番が来ると。実際にその後の展開を考えてみるに、善兵衛とその娘婿である英夫氏との二人三脚によって、登美の丘ワイナリーが発展成長し、東洋一と称される日本を代表するワイナリーとなったのも、信治郎の頭の中できっちりとシミュレーションされていたのだと私は確信しています。信治郎はまさしく善兵衛という人財に将来のワインビジネスの発展を見越して投資したのです。」
その言葉を聞いた私は、びっくりすると同時に今まで考えていたことが全く間違っていたことに気が付いた。よくよく調べてみると、信治郎はすこぶる聡明で行動力のある傍ら、自分が得意なことは自分で一生懸命責任を持って取り組むが、一方自分が詳しくないことや苦手なことは、その道で日本で一番の専門家に頼るのが常であったからだ。そのような大阪商人としての人を見る目、将来のマーケットを見通す力、ここぞという時の決断力が今のサントリーに引き継がれ、現在のようなサントリーグループにつながっているのではないかと考えている。

いつ読んだのかは忘れてしまったが、「GIVE & TAKE (与える人)こそ成功する時代」という著書がある。本書では、人には3つの思考・行動パターンがあると書かれています。ギバー(与える人)、テイカー(受け取る人)、マッチャー(バランスを取る人)。ギバーは「与える人」。常に他人を中心に考え、相手の利益や何を求めているかに注意を払う人。自分が受け取るよりもそれ以上に相手に与えようとする人のことです。テイカーは「受け取る人」。常に自分を中心に考え、相手の必要性よりも自分の利益を優先する人。与えるより多くを受け取ろうとする人のことです。マッチャー(バランスを取る人)ギバーとテイカーの中間の性質を持ち、与えたものと同等の利益を確保しようとし、損得のバランスを大切に考える人といえるでしょう。
この著書の内容を私なりに3つの要点としてまとめると、ギブ・アンド・テイクの関係には、「ギバー」「テイカー」「マッチャー」という3種類が存在する。調査によれば、【要点1】成功から最も遠いのがギバーであるが、同時に最も成功しているのもギバーである。【要点2】成功しギバーが成功しやすいのは、長期的な人脈を築き、利益のパイを増やす働き方をし、他者の才能を信じ育て、信望を元にした影響力を発揮することができるからだ。【要点3】ギバーが成功するためには、他者につくすだけでなく自分の利益にも関心を持つこと。
まさにこの信治郎と善兵衛のワインづくりに関する協奏も、信治郎が二人の長期的な信頼関係の下、善兵衛のワインづくりに対する卓越した能力を見抜き、サントリーの将来のビジネスとして貢献できるのではないかと考え、善兵衛に積極的に投資したのだと考えている。加えてその並々ならぬ大阪商人としての長年の経験と勘からくる、信治郎自身がもつ商売人としての嗅覚のなせる業だったのではないか、そしてそこには一回り年上の善兵衛に対するリスペクトの念と、生き方に対する共感があったに違いない。「善兵衛さん、お金のことなど、めんどうくさいことは私がやりますから、善兵衛さんは思い切ってぶどうの研究だけにに専念しなはれ」という思いやりと共に、自社の将来の利益をも考えた期待の念が読み取れる。まさに信治郎はある程度の自身の利益の算段をうまく考えることのできる極めて優秀な「ギバー」だったのだ。
サントリーの経営理念のうちの一つに「利益三分主義」という言葉がある。三分の「三」という数字は、何を表していると思いますか?それは「売り手」「買い手」「世間(社会)」です。この言葉は、現在の滋賀県にあたる近江に本店を置き、江戸時代から明治時代にわたって日本各地で活躍していた近江商人が大切にしていた考えです。信頼を得るために、売り手と買い手がともに満足し、さらに社会貢献もできるのが良い商売であると考えていました。前述した「ギバー」「テイカー」「マッチャー」の3つの関係に登場してくるのは、あくまでも「自分」と「他者」の双方間の関係であるが、まさに信治郎の考え方は、この双方間、つまり「与える人(売り手)」と「与えられる人(買い手)」との関係に加えて、「世間」つまりそれ以外のすべての人にも有益になるということを大切にしていた。

そして信治郎の哲学の中にも「陰徳あれば陽報あり」という言葉があります。この言葉は、「人の見えないところで徳を積めば、いつかそれが自分に良いことになって還ってくる」という意味です。信治郎は、事業によって得た利益を「お客様、お得意先」への感謝の気持ちとともに、社会への貢献に活用することを信念としていました。成功を偶然のものと捉え、地道に努力することを大切にしました。丁稚奉公から下積みの苦労を重ねた経験が、彼が寄付や文化への支援を怠らず、謙虚に経営を行う日本的な経営者になる要因となったのです。最後に信治郎が「陰徳」についての大切さを知ったエビソードを紹介させて頂き【本編➃】を終わらせていただくことにします。
ある日、信治郎は、母に連れられて頻繁にお寺にお参りに行っていました。そこで、道中に母から物乞いにお銭をあげるよう言われます。また、同時にお銭をあげた後、絶対に振り向いてはいけないときつく言われてもいました。なぜ、振り向いてはいけないのか。信治郎は理由がわからず今日こそは振り向こうと意気込みます。しかし、それがバレてしまい、普段全く怒らない母が激怒したのでした。「陰徳」という言葉をご存じでしょうか?この場合、信心を得るのは物乞いにお銭をあたえた方なのです。自分のために行っていることだから、それを恩を売るような態度で受け取った相手の様子伺ったりなどしてはいけないということなのです。

 

 

神田 和明

神田 和明

結果の出る強い組織づくりコンサルタント

株式会社チームフォース代表
中小企業の経営者に、コンサルティングとコーチングのハイブリッド型ソリューションで「結果の出る強い組織づくり」のサポートを行い、「活力」と「成果」をお届けしています
中小企業診断士/【BCS認定】プロフエッショナルビジネスコーチ/宅地建物取引士

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